先日、卑弥呼というのは役職名で複数の女神達が 卑弥呼として活躍したこと。その13代目は福岡の田川に位置した邪馬台国で活躍したことをお話ししました。 田川郡赤村の古墳にてその卑弥呼にお尋ねしてみました。田川の前はどこに邪馬台国はあったのか? 12代目の卑弥呼とはどのような女性であったのか? その卑弥呼が埋葬されたのはどこになるのか?
幾度かおとずれ 少しずつ受け取れた情報から おぼろげながら田川より以前の邪馬台国のことがわかってきました。魏志倭人伝の記載から推測される卑弥呼と次の卑弥呼「とよ」との交替の時期はおおよそ西暦238年前後が推測されています。果たして「とよの国」の邪馬台国の前は・・・福岡県の朝倉市にあったようです。古代の集落跡が見つかっている朝倉市の平塚川添遺跡(ひらつかかわぞえいせき)を中心とした広大な平野に当時邪馬台国が築かれていたようです。そこで祭祀王・卑弥呼として君臨した女性は、なんと!二人いたとのことです。
一人目(第11代目卑弥呼)は幼名「うめ」。長崎で生まれ、強い霊感のうわさが広まり わずか7歳のときに親元から引き離され 宇佐の御許山で霊的な修行を強要されています。幼いながら大変、意志の強い女性でなかなか環境に馴染もうとはしなかったみたいです。宇佐でのおよそ22年間の修行ののち29歳で卑弥呼としての役割が与えられています。大変能力の高い女性でそつなく大役を勤め上げ57歳で卑弥呼職を退き その後 故郷の長崎で余生を送ったようです。もちろん 親元を離れて以降、残念ながら、二度と両親と会うことはありませんでした。一番多感な頃を 孤独に耐えりっぱに卑弥呼として君臨しています。
二人目(第12代目卑弥呼)は幼名「茶々(ささ)」。久留米に生まれ 同じく強い霊感のうわさのため14歳で親元を引き離され 同じく宇佐の御許山で 7年の修行ののち 21歳より卑弥呼として活躍しています。大変繊細な性格で見知らぬ人と逢うことを極端に苦手としていたようです。11代目と同じく、多感な時期を孤独な環境に耐え卑弥呼としての職をこなしていますが38歳のとき狗奴国の刺客に暗殺を企てられ傷をおっています。そして しばらくして傷がもとで短い生涯を閉じたようです。繊細で病弱な体質で 静かな性格だったようです。しかし孤独な環境も霊感を生かして神々と会話していたことが唯一の彼女の心の支えになっていたようです。そして志賀島で見つかった金印に刻印されている「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」というのは 他でもない12代目卑弥呼のことです。
ふたりとも 今の 朝倉市に埋葬地があります。参拝に行くと 気丈に頑張った11代目卑弥呼と対照的に繊細がゆえに孤独を神々との交流にひたすら求め最後は病に耐えて生涯をとじた12代目の卑弥呼の姿がありました。小国が乱れて争っていたこの時期 彼女たちに与えられた時間の間だけは 不思議に騒乱は比較的おちついていたようです。そして時の中国との外交という綱引きで やがて来る大和王朝による国の統一に向け(もちろんこの時の彼女達はその後の日本の行く末が解っていたわけではありませんが・・・) 必死に孤独と戦い続けたのでしょう。今更ながら(笑)エールを送らざるを得ませんでした。

250308150152974む

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今の時代、当然の権利のように平和を享受する私たちですが ほんの少し前の日本・・このようにして必死に国を支えた彼女たちが居たことを 忘れないようにしたいものです。
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